肩書きというコスプレがさらけ出してくれる自分もある【時々書きたくなるエッセイのようなもの】
ブログを書き出して2ヶ月が立っている。飽き性なわたしがぼちりぼちりとでも続けられているのは、愛着のもてる名前を思いついたからというのが大きいかも知れないと思っている。
念のため明言すると、このブログを書いている【村上とうふ】は、わたしの本名ではない。
ブログを作るとき、それにあった名前をつけようと思った。本名はパっとみて読みにくいというのもあるし、一応これでも女だから危機管理として個人情報はあんまり出したくないというのもある。
でもそれより何より、本名のわたしとして晒すことに耐えらえないような内実もあり、そういうデリケートなことこそ、このブログで発信していきたいからでもある。
本名はあまりに「わたし」と同化しすぎてしまっている。
本名、(わかりづらいから仮に)山田花子とすると、わたしは山田花子を演じることはできない。山田花子ってなんだろう、どんな人なんだろうって思うよりも、「わたし」ってなんだろう、どんな人なんだろうって考えてしまう。
少しでも山田花子が「わたし」と外れたことを書いていたら…気持ち悪さがあって立ち止まってしまうと思う。書いた内容に「これぞわたしだ!」と思えない限り、投稿ボタンはなかなか押せないし、「これぞわたし!」なんてものは、そもそもないのだろうからタチが悪い。あるいは自由にいろいろ書いてみたとしても、やっぱり後からどんどん恥ずかしくなってきて…ブログを辞めるんだと思う。
「村上とうふ」だったら。
この子が言いたいことってなんなんだろうなー、この子ってどんなキャラクターになるんだろう。自分自身というよりも、もう少し引いて、なんだろうむしろ、自分の子どもみたいな感覚で眺めていられる。こっちのほうがよっぽど(逆説的だけど)「わたし」を自由にさせてあげられるなあと思う。
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あるいは現実社会でも、本名で仕事しないほうが、わたしはうまくいくのかもしれないなあと思っている。
ブログと同じで、「山田花子」という、「わたし」自体を晒しているからこそ身動きが取りづらいことが多かったように思う。そうじゃなかったら、もっと思い切ったこともできたかもなあとか。
会社員のえげつないな、と思うところは、しかも、「●●社の山田さん」っていうように、自分の名前の上にさらにそのチームの名前がどーんと、乗っかってくることだ。
「あなたたちは今日から●●社の一員です。何か悪いことをすれば『●●社の内定者』として報じられる。内定者アルバイトをする人は、お客様から見れば『●●社の社員』の1人として見られる。そうでない人も、入社後は否応なく、自分の行動1つ1つが『●●社の人』として評価されます。●●社らしさとはどういうことか、●●社らしい人としてどう行動すべきか。ぜひ入社に向けて、これから今一度考えてみてください」
内定式で人事部長だか誰か偉い人が、たしかこんなことを言っていた。
企業で働くということは、自分自身である以前に、「●●社の人」として見られるということ。だから、チーム「●●社」に入ったからには、「●●社らしさ」の獲得を目指すことを求められる。
なのに、それでいて同時に、本名の自分としていなければならない。「●●社の人」って言ったって、あくまでも「●●社の山田さん」なわけで。会社に提出する履歴書やその他の書類には、自分自身として書くことが当たり前に求められる。少なくとも会社の中のコミュニティにおいては、「山田さん」として存在しているし、「山田さん」に評価がくだされる。
「●●社らしさ」を求められる。一方で、「わたし」は「わたし」であり続ける。
つまりは、「わたしらしさ」イコール「●●社らしさ」であれ、というのを、望まれている。
その会社で求められる「●●社らしさ」と、自分が無意識のうちに目指している方向性が、一致しているならいいんだろう。
でも、そこに少しでもズレがあったらば、求められることとアイデンティティのせめぎあいで、苦しくないだろうか。そのうちに軋んで壊れてしまうか、あるいは無駄に硬直して動けなくなってしまうんじゃないだろうか。
会社のみんなが求めているのは私じゃなくて私のキャラをしている人間なんだ。
と途中で気付いてしまいました。
うさぎの部下さんのこの言葉が、的を射ていているなあと思う。
そんなふうに思うわたしが変なんだ、と言われたらそうかもしれない。どうなんだろう。少なくともわたしは、こういうことが苦しかったなあと思っている。
ほんとうに、世の人たちはよくやっていると思う。けっして馬鹿にしているわけじゃなくて、わたしだってやろうとしたけどできなかったから、いいなあってほんとうに思ってる。
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でも、考えてみれば、芸能人みたいに、仕事するときに仕事ネームを付けたっていいんじゃないか?もっとそれが、会社員でも普通にあってもいいんじゃない?
だってさ、「演じている」そういう前提があれば、そのほうが、求められるキャラクターになることに躊躇しなくて済むかもしれないし、あるいはもっと、自由にのびのびと思い切った挑戦が、出来るんじゃないかって気がする。
そりゃ、「山田花子」という人がやっていることならば、いい結果も悪い結果も、ぜんぶ「山田花子」に返ってきて、だからこそ、そういうところからその人への信頼なんかが生まれてくるんだっていうのは、わかってる。
でもそういう「信頼」って言葉が、失敗が許されない空気を生んでるんじゃないか?
失敗したっていいじゃない。あるいは、そのキャラクターそのものでなくても、演じていてもいいじゃない。もっと自由にのびのびやってみて、いいじゃない。わたしはそういう働き方がしたいんだけどなあ。
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うーむ、ここまで書いて、なんだか煮詰まってしまった。もやもやを残したまま、でもここで一旦筆を置くことにする。