とうふのホルモン

ホルモンのままに。主成分はエッセイ。

なぜ本を読むべきか?凡人系東大生がわかりやすく整理してみた。【とうふ持論】

とうふです。

よくおとなは言いますね。「本を読みなさい!」と。その実、「じゃあなんで?」と言われるとちゃんと説明できない人が多いんじゃないかという気がします。

 

・知識が身につくから?…教科書や専門書ならまだしも、小説やエッセイはそんなに役に立つだろうか?

・教養のため?…だとすると、有象無象のブログや無名作家の本に意味はないのか?

・会話のネタになるから?…こうなると、文章である必要性は皆無です。

ボキャブラリー(語彙)が増えるから?…なんのために増やすのか?読み書きのためだけにしか使わない言葉や、流麗な文章でしか見ない言葉も、知ることに意味はあるのだろうか?

 

上記の答えはすべて間違いではない。が、的を射ているわけでもない。

だいたい、「勉強」「役に立つもの」と思うと途端に楽しくなくなってしまうのが我々凡人でありますから、「勉強になるから、本を読みなさい!」などと言われてもまったく実際に読もうという気にはならないのであります。

 

本質はもっと違うところにあります。読書は楽しい。それでいて楽しいだけでない価値がある。

本を読むこと、あるいは文章を読むことの本質的な価値はなんなのか。とうふなりの考えをまとめてみました。

 

■もくじ 

 

1.わたしたちは色眼鏡を通して世界を見ている

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「目からウロコ」なんて表現があるけども、わたしたちの目には常にウロコがついていて、どんなに努力しようとも、完全なる客観的な視点など持つことはできません。1つウロコが取れた、と思っても、また別のウロコが何層もコンタクトレンズのように目に張り付いている。露骨な言い方をすれば、わたしたちは常に「自分」という色眼鏡を通して世界を見ている。

 

さらに複雑なことに、「何層もウロコがある」と言ったように、その色眼鏡のレンズは多層構造。どういうことかというと、たとえばわたしでいうと、【女性】【田舎出身者】【人見知り】【東大生】【うつ経験者】【ニート経験者】【フリーター】などなど…言語化できないようなものも含めて、ありとあらゆるバックグラウンド(経験)が「わたし」という人を構成している。そして、そのそれぞれのバックグラウンド(経験)が、わたしにウロコ=レンズを提供しているのだ。

何が言いたいかというと、何か1つ同じレンズがあればそれで見えるものが同じというわけではない(ex.「女性」であればみんな同じものが見えるよね、というわけではない)。多彩なレンズの重なりによって、1つの色眼鏡はできているので、その結果、文字通り、「誰ひとりとして同じ色眼鏡を持つ人はいない」のだ。わたしから見える世界は、文字通り、わたしだけに見えているものなのだ。

 

2.人の数だけ色眼鏡(=見方)がある

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人はすべからく色眼鏡、すなわち「自分」というフィルターを通して世界を見ている。自分の色眼鏡は自分に固有のものであり、すなわち人の数だけ、多種多様な色眼鏡が存在する。

だからこそ、たとえ同じものを見ていたとしても、見え方は自分と隣の人とでは微妙に異なっている

わかりやすく大雑把な例をあげると、たとえば女性にはわかる繊細な口紅の違いも、男性にはわからず全部同じ色に見えるとか。あとは、虹の色が何色かって、日本では7色というのが一般的だと思うけれど、実は文化や言語によって異なるとか(5色とか、3色とか)。もっと大胆に言えば、目の見えない人や耳が聞こえない人などは、きっと彼らなりの世界の感じ方があるんだろうな、とか。

こうした違いは、別に一方がより優れたメガネを持っているとかそういう話ではない。単に、見え方が違う、それだけのことなのだ。

そして、当たり前だけど、わたしたちは、「自分の目から見た世界」しか見ることができない。ほかの人から世界がどうやって見えるか、いくら想像してみても、それは自分の目というフィルターを通して得た情報を組み合わせて作る想像でしかない。

なぜ男女は分かり合えないのか?とか、よくある話題だと思うんだけど、こういうわけなのだ。男女に限らず、そもそも人とは、究極的には互いに「完全に分かり合う」ことなどできない存在なのだ。

 

3.完全に分かり合えなくても、分かろうとすることで世界はより鮮明に見えてくる

とはいえ、じゃあ自分が今見ている世界が全てです!おしまい!としていたら、よくない。なぜなら、それが色眼鏡を通して見ているものである以上、解釈に歪みがあったり、欠落している視点が必ずあって、「誤解」を生んでしまう、そしてそれが生きていく上でのいろんな選択のミスにつながりうるからだ。

たとえ色眼鏡を外すことはできない・ウロコを完全に取り去ることはできないとしても、「できる限り」、実際の世界はどうなっているんだろう、と考え「誤解」を減らすことは、自分の人生を楽しい方へ漕いで行く上でとってもとっても大切なのだ。

 

じゃあ、「できる限り」実際の世界の理解を獲得するためには、どうしたらいいのか。

 

この問への答えこそ、わたしは「読書」、あるいは文章を読むことだと思う。言葉とはいろんな人に情報を伝えるための最も効率的な手段であり、文章とは「その人から対象がどう見えているか」を、言葉という道具によってほかの人にも伝わる形へと落とし込んだもの

 

完全に「客観的」な視点など、ありえない。だとすると、より歪みの少ない色眼鏡を手に入れるためにわたしたちに「できること」は、よりいろんな視点からみた世界を知ること、にほかならない。そしてそれを可能にしてくれるのが、読書であり文章を読むということなのだ。

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他者からみた世界を完全に理解することはできなくとも、そのレンズを通して見える世界がどんなものなのか、「想像」することは、できる。自分の経験と照らし合わせることで時にはそのレンズを自分の内に取り込むこともできるかもしれない。

たぶん、それこそが「目からウロコ」ということ。つまり「目からウロコ」とは、歪んだレンズを取り去って、その代わりにより度の高いレンズを手に入れ、それによって世界がちょっぴり鮮明に見えるようになる、ということなのだ。

 

4.まとめ

1.わたしたちは色眼鏡を通して世界を見ていて、

2.人の数だけ色眼鏡(=見方)があるよ

3.他者のことを完全に分かり合えなくても、それでも分かろうとすることで世界はより鮮明に見えてくるよ。そして、「分かろうとする」上で最も有効な手段こそが文章ではないでしょうか!

 

いやもちろん、文章だけじゃなくて絵画や写真、音楽などさまざまな表現がありうる。でも、より確実に、よりいろんな人にわかりやすく伝わるものが文章だ、と思うのだけれど、いかがでしょう。

 

しかもですね、「この人からはこういうふうに見えるんだな」とか「こんな見方もあるのか」とかって知ることって、そもそもそれ自体、すんごくおもしろいんです。

誰とも完全に分かり合えないなかで、「この人の考え方、わたしとすっごく近いかも!」って思えるそんな言葉に出会ったときは、大事なものを共有できた喜びに超興奮する。ときにはそれによって自分から見える世界ががらっと変わる瞬間があって、それなんて超ゾクゾクする。

 

結論、何が言いたいかっていうと、わたしはそういうところに超絶喜びを感じるヘンタイですので、世の中にそういうヘンタイがもっと増えたら面白いなーと思うのです。

とうふは主張します。

皆様、もっともっと読みましょう。

そして、もっと書いてください!あなたから見える世界を、ぜひ言葉で切り取って、教えてほしいのです。

わたしの文章を通して、そんなヘンタイを増やしていきたい…!

 

というわけで、みんな、ブログやろう!∠( ˙-˙  )/

おわり。(雑)