とうふのホルモン

ホルモンのままに。主成分はエッセイ。

とりあえずの塾と作文「しょうらいのゆめ」【時々書きたくなるエッセイのようなもの】

「お母さん とりあえず塾に行っているからと安心していませんか」

昔、中央出版か何かのCMで島田紳助(若い子はどっちも知らないかもしれないね)がこんな感じのことを言っていた。要するに、子どもの学力を上げたい、と思ったときに、「とりあえず」塾に通わせることにする。そうすると、「とりあえずは、塾に行かせているから大丈夫ね」と、実際にまじめに勉強してるかどうかとか、その塾の教育効果はどうなんだとか、諸々のことは置いといて、「ウチの子は塾に通っている」その事実だけで安心してやいませんか?それってほんとうに、本質的な解決になっていますか?(だから塾より自宅で学べる教材を買いましょう)、とまあそういうことだったと思う。

これには、当時小学校高学年くらいだったのだが、子どもながらに「なかなかに的を射たことを言うじゃない」と感心してみていた。

 

わたしの母は19歳でわたしを産んだ。

今わたしは24歳。子どもはいないけれど、自分が19歳になった頃から時折、「自分がもし今親になったら」ということは想像してみている。

「今の自分に子どもを育てることができるんだろうか…!」という不安はいつだってある。「やってみなけりゃわかんない」ですから、やってみたらどうにかなるんだろうと思うけど、でもやっぱり不安。子どものときは、親はいつも正しいことを知っていて、立派で、強くて優しいものだと信じて疑わなかったけれど、ほんとうは親って、いつも心の中ではおっきな不安を抱えているものなんでしょうね、と今では思う。

ちなみに我が家には中央出版の図鑑やら教材一式があった。わたしが小学校に上がる直前に、訪問販売にきた人から父が買っている。本棚もセットで、何十万もしたらしい。それくらい不安だったのだ。おとーさんも。

 

この子に幸せになってほしい。

だからこの子のために出来る限りのことはしてあげたい。

いい親でありたい。まっとうな子に育てたい。

――

どこに境目があるんでしょうか。

難しいんだけれども、不安だからといって「とりあえず」に取りつかれてしまうといけないなあという気がします。

 

「とりあえず」塾。

「とりあえず」進学。

「とりあえず」就職。

「とりあえず」結婚したい。

「とりあえず」年収400万円以上。

「とりあえず」優しくしておこう。

 

とりあえず、とりあえず……。親が「とりあえず」をしていれば、子どもも「とりあえず」が大事なんだな、と思うでしょう。そうしているうちに、いつかの子どもは「とりあえず」の大人になっていく。

 

「しょうらいのゆめ」の作文。これもいけないのはこういうところじゃないかなあと思います。

「ぼくのしょうらいのゆめは、サッカーせんしゅです」、嘘でも本当でも、「とりあえず」そう言わせることで、そういう夢を聞くことで、「とりあえず」夢があるってことに、安心したいだけなんでしょう?だから、「微笑ましいなあ」と思って終わりなんでしょう?何をしてあげるわけでも、ないのでしょう?

 

とにかく大事なのはこの問いです。

ほんとうに、子どもはしあわせになっていますか。

ただ、あなたが安心したいだけではありませんか。

 

どれだけ不安なときだって、妖怪「とりあえず」人間にはならないようにしたいなあ、と自戒を込めて。

 

 

追伸

1つだけ、いい「とりあえず」もありました。それは「とりあえず、やってみる」。

考えないのもよくないし、考えるばかりもよくないね。考えて、やってみて、考えて、またやってみたらいい。