とうふのホルモン

ホルモンのままに。主成分はエッセイ。

悪口憎悪【時々書きたくなるエッセイのようなもの】

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自分で言うのもナンだけれども、わたしは自分のことを滅多に人の悪口を言わない人間だと思っている。さらに言うのもナンだけれども、これはほぼ客観的事実であると言っていいと思っている。

欠点ほど目に付くとはよく言うけれども、わたしの場合、人の悪いところがあまり見当たらないのである。他人に対して不快だなあと思うことがそもそもあまりないのだ。あるとしても、自分が不快に感じているのは特定の誰かの言動のせいであると思い至るまでにとても時間がかかる。なんとなくしんどいなあと思っていたところに、ほかの誰かが愚痴をこぼすのを聞いて、ようやっと、「ああだからわたしはしんどかったのか!」と思うのだ。……鈍臭いだけと言われればそうだと思う。

1つ堂々と悪口を言わせてもらうなら、人に平気で悪口を言う人のことはとっても苦手だ。といっても、どうしても言わずには耐え忍び難く、たまに吐く愚痴でやり過ごしているのだというような場合には、共感できる。まったくそういうのなしで、綺麗なものばかりでやっていけるものではないというのは、重々わかっている。そうではなくて、退屈しのぎだったり、自分が悦に入るためであったり、わざと聞こえるか聞こえないかで言ってみて相手の反応を楽しんでいたり……そういうのが垣間見える悪口はとてつもなく苦手なのだ――もちろん、そういうのなしの世の中など、到底到達不可能だというのも、頭では、わかっているつもりなのだけれども。小学校や中学校の頃は、自分のそういう正義を信じていじめっ子制裁、陰口に対する直談判等等、暴れまわっていたものだ。どこかでそれは違うんだ、とは思い始めたものの、未だにわたしは何が一人前の大人のとしての振る舞いなんだか、よくわかっていないところがある。

 

不快という感情について、わたしはとても鈍感なんだと思う。それは、いいこととは限らない。不快の閾値が高いということは、他人の不快に対しても鈍感であるとも言えるからだ。「自分がされて嫌なことはほかの人にしないように」するだけでは、デリカシーという面で不十分なのである。

そのまま、気まぐれで自由奔放な人でいられたらそれはそれでよかったろうになあと思う。しかしまあ不幸なことに(?)わたしは、人に嫌われるのはとことんダメなのだ。自分が悪口を言わないからこそ、悪口を言う人のことを敵視する一方で、「悪口を言いたくなるなんてきっと余程のことなんだろう」と思ってしまう部分もある。そこまで自分が嫌われてしまう、ということに対する謎の恐怖がある。理屈では「別にこいつに嫌われたとしてもどうってことはないじゃないか」と思うのに、「嫌われたらどうしよう」と胸がドキドキして体の芯が冷えていくのを止められない。実際、わたしが悪口を言う人のことを苦手だ、嫌いだと思うのは、自らの正義によるものではなくて、この恐怖に対する防衛反応なんだろう。

人から嫌われたくない。それでいて、鈍感。どの程度までは許されて、どの程度からは嫌われたり悪口を言われたりするのかわからない。だからこそ、わからないまま、わからないなりに、ひたすらびくびくと周りを伺ってばかりいる。まったく、こんなふうになるくらいなら、「悪口を言わないこと」と教えるのではなくて、「悪口を言われるくらい、当たり前、その程度でへこたれないこと」と教えてくれればよかったのに。教えられたくらいではどうしようもなかった可能性もおおいにあるけれど。

 

悪口を言わないっていうのは美徳だって言うけれども、実際はこんなもん。

それでも、だいたいの美徳なんて、そんなもんなんでしょう。何事にも裏がある。だからまあ、こんなわたしを、そうかそんなもんだねと受け入れてあげることが楽しく生きてく上での一歩なんでしょうねと思ってこれを書いている。