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とうふのホルモン

ホルモンのままに。主成分はエッセイ。

ジブリ初、海外監督起用。「ジブリ」とはなんなのか?【レッドタートル考】(2/3)

★前回

chi-cooks-everyday.hatenablog.com

※前回及び今回はネタバレはありません。また本記事が「続き」というわけでもありません。

 

 

「レッドタートル ある島の物語」。

ジブリオタクと言いつつ最新情報を追いかけているわけでもないので、わたしがこの作品を知ったのは、実は先日の「ジブリの大博覧会」にて。「思い出のマーニー」の後、宮崎駿監督の引退宣言を受けて、ジブリはアニメ制作から撤退と報じられていたから、最新作があるのか、とびっくりした。しかも、監督はフランス人……?

 

パンフレットには、「構想10年、制作8年――」とある。

マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督の、2000年に公開された8分間の短編アニメ『岸辺のふたり』という作品を見た鈴木敏夫プロデューサーが、「この監督の長編を観てみたい」と長編制作を打診。ヴィット氏は、高畑勲監督の助言を受けることを条件にこれを快諾したそうだ。

アニメーション制作の実作業はフランスを中心に行われ、節目節目で打ち合わせを行ってきたそうだ。

 

さて、これを知って、きっと多くの人が疑問に思うだろう。

海外の監督による、海外を拠点に制作されたこのアニメーション。

「はたしてこの作品は、“スタジオジブリ”作品なのだろうか?」

ナウシカラピュタ、トトロや、千と千尋や――あれらの作品の、同ブランドとして見ることができるのだろうか。

 

ジブリっぽさ」「ジブリらしさ」とは一体何か?

そもそも、ジブリ作品を「ジブリ」たらしめている、「ジブリっぽさ」、あるいは「ジブリらしさ」とは一体なんなのだろうか。

www.cinematoday.jp

昨日も引用した「シネマトゥディ」でも同じ疑問を扱っていた!だけど読む限り、この問いに真正面から切り込んで仮説を立てているわけではないようだ。

 

ちなみに鈴木プロデューサー自身は、記事の中で「ジブリらしさ」についてこう語っている。

 

「よく『ジブリらしさ』と言われますが、それを一番わかっていないのが僕なんです。何をもって『ジブリらしさ』なのかなと。絵のタッチが違うとか、そういうことは人に指摘されて初めて知ったくらいですから。根幹的なことで言えば、ジブリは『絶望を語ってはいけない』。アニメは子供が観るものだから、それはいつも心のどこかで思っています」

 

「アニメは子供が見るものだから」、という意見は、いつもホントにそう思ってるのかな?とも思いつつ(笑)、でもジブリのブレないところだなあと思う。

絶望を語らない。たしかに、「ナウシカ」「ラピュタ」「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」などなど…どんなにデリケートな、大きな問題に切り込んだとしても、必ず最後には乗り越えて、希望が残る、そんな終わり方をしているなあと思う。

 

でも、この回答はやっぱり物足りない。

それだけだろうか?と、思わざるを得ない。

 

「ほんとうに、これはジブリなのか?」と物議を呼ぶ(?)、「レッドタートル」という作品。スタジオジブリの人たちによると、しかし、これは紛れもなく「ジブリ作品だ」と応えるだろう。そこで、この記事では、一見ジブリらしからぬと言えば確かにそうかもしれない、この「レッドタートル」という作品から、その中にある「ジブリらしさ」を抽出してみたい。そしてそれを通して、鈴木プロデューサーですら「一番わかっていない」という【「ジブリらしさ」とは何か】という大きな問い、これに無謀にも、一ファンであるとうふが切り込んでみたい(屍はどうか優しく拾ってほしい)。

 

何を伝えるか/いかにして伝えるか

先の引用で、鈴木プロデューサーはジブリの根幹にあるものとして、「絶望を語ってはいけない」としていた。いわばこれは、アニメーションを通して伝えるメッセージ、すなわち【何を伝えるか】(映像によって伝えたい内容、ストーリー)という部分。このもう一方には、【どうやって伝えるか】、つまり実際の表現としての映像がある。*1

ストーリーだけでもなく、またストーリーのない映像だけでもなく、【何を伝えるか】と、【どうやって伝えているか】、この2つの要素両方によってアニメーション作品は成り立っている、と言えるだろう。

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(実際、鈴木プロデューサーも先の引用の中でさらっと、「絵のタッチが違うとか」と、【どうやって伝えるか】の部分にも言及している。)

 

【何を伝えるか】【どうやって伝えるか】でいうと、どちらかといえばわかりやすいのは、後者の方だと思う。新海誠作品において緻密な背景描写は彼の作品らしさを感じさせるし、スタジオジブリにおいても、キャラクターの描き方とか、自然や人物の表情・動きなどのいきいきとした描写とか――時に経費を度外視してまで生み出す映像としての圧倒的なクオリティーは、「これぞジブリだよね!」と感じさせるわかりやすい要素だし、必要なものだと思う。

 

それでも、一方でそこに頼りきらないのがジブリの本当のすごさだなあと思う。

もう一度、鈴木プロデューサーの発言を見てほしい。

 

何をもって『ジブリらしさ』なのかなと。絵のタッチが違うとか、そういうことは人に指摘されて初めて知ったくらいですから。根幹的なことで言えば、ジブリは『絶望を語ってはいけない』。アニメは子供が観るものだから、それはいつも心のどこかで思っています」

 

絵のタッチとか、そういうことよりも、もっと「根幹的」なことがある。それが、つまり【何を伝えるか】だ。

「トトロネコバスかわいいなあ」とか、「ハウルイケメンだなあ」とか(どっちもわたしなんだけど)、そこだけのファンももちろんいるとは思うけれども、それにとどまらない、熱狂的なジブリファンがいるのは、ここがあるからだと思っている。つまり、単なるアニメ好きがつくる高クオリティーのアニメ映像というのではなくて、その裏に、文学作品とも言えるような物語がきちんとあるのだということ。むしろ、それを伝えるという目的のために、手段としての映像があるのだということ。

 

このものづくりの姿勢こそが、ジブリジブリたらしめているなあと思う部分だ。その結果として、映像にも妥協がないという、誰が見てもわかりやすい「ジブリらしさ」も生まれている。あくまで、根幹にあるのは、まず【何を伝えるか】であり、その次に【どうやって伝えるか】という順番。その姿勢そのものが、ジブリらしさなのだ。

ジブリは文学だ。アートなのだ!

 

「レッドタートル」の表現――いきいきとした自然と、無個性な人物

ここに照らして言うと、「レッドタートル」は、【何】を、【どう】伝えているだろうか。

【何】という部分は、ネタバレにもなってしまうので第3部に譲りたいが、ここは安心してほしい。「レッドタートル」は、間違いなく、他の作品に一切遜色がないどころか、むしろメッセージの壮大さで言えばほかのどの作品にも負けずとも劣らないほどの、心揺さぶられるメッセージが込められていると思った。

 

ここでは、【どう】という部分にフォーカスしよう。

上でわたしは、映像が持つ「ジブリらしさ」として、以下の2つを書いた。

 

・キャラクターの描き方

・自然や人物の表情・動きなどのいきいきとした描写

 

まず、疑いようもなく「これはジブリだ」と思うところ。

それは、前回の記事にも書いたけれど、圧倒的な自然の描写!!従来のジブリも誇る「絵の力」、つまり視覚的な美しさはもちろんのこと、さらに本作は、従来のジブリにはなかった、「音の力」、つまり聴覚的な表現へのこだわりが凄まじい。きっと、スタジオジブリの従来の制作陣にはなかった発想なんじゃないだろうか。ジブリらしさを持っているどころか、それにさらに磨きをかけているとも言えると思う。これには、やっぱり宮崎駿監督も、刺激されちゃうんじゃないか?!

 

続いて「これはジブリなのか?」の疑惑のポイント。

レッドタートルの絵を見てもらえばわかると思うけれども、今回多くの人が違和感を抱くのは、人物の描き方ではないだろうか。

 

これが主人公だけど、目も鼻も口も、よく言うととってもシンプル。悪く言えば無個性だ。ちなみにセリフがないので、作品中では名前もない!

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従来のジブリと比べてみよう。たとえば、こんな感じのイメージじゃないかな。

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あるいはちょっと特殊なところを持ってきてみる。「かぐや姫」。でもまあ、キャラの個性や性格は出てるよね。

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ちなみに、人物に限らず、主要なキャラクターはこんな感じにいきいきしてるんだけど、

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タイトルでもある「レッドタートル」は、こんな感じ。

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カメ!!赤いけど、めちゃ普通にカメなのだ!!

 

絵のことは正直よくわからないけれど、でも、明らかにちがくない?と思ってしまう。「これってジブリって言っていいの?!」ってやつだ。

 

ここで、前の章で書いたことを思い出してほしい。何かと言うと、「ジブリらしさ」の根幹にあるのは一体何か、ということ。

あくまで、根幹にあるのは、まず【何を伝えるか】であり、その次に【どうやって伝えるか】という順番。その姿勢そのものが、ジブリらしさなのだ。

この考えに照らし合わせて言うと、実際にレッドタートルという作品を見たら、「このキャラクターの描き方には意味がある」と思った。つまり、この作品を通して伝えたいメッセージを伝えるためには、個性のあるキャラクターではなくて、平凡な、どこにでもいそうな「ある男」の、1人の人間の物語として描く必然性があるなあ、と思った。

【どうやって伝えるか】よりも、【何を伝えるか】に真摯に向き合った結果が、このキャラクターたちの描き方なのだ。

そういう意味で、「レッドタートル」は、わかりやすいぱっと見た「ジブリらしさ」よりも、根幹にある「ジブリらしさ」を大事にしているジブリ作品だといえる。一見、「ちょっと、どうなの?」と思われるかもしれないけれど、その裏には、そんな批判を恐れず堂々と自分の姿勢を貫く、より濃密な「ジブリらしさ」があるのではないかな、と思う。

 

ただ、このキャラクターの件は、わたし自身今後のジブリ作品の動向に注目したいところだなあと思っているところである。つまり、キャラクターの描き方は「ジブリらしさ」の指標として、抜きにしてしまうのだろうか?という部分。やっぱり、トトロとか巨神兵とか……個性的で魅力的なキャラクターを、丁寧にいきいきと描きぬくのもジブリの魅力の1つじゃないか、と個人的には思うからだ。

結局は「何を優先するか」なんだろうけれど、やっぱりみんなでワイワイジブリ作品を楽しめないのは、ちょっと寂しい。今後どっちに舵を切っていくのかは、注目したい。


日清製粉グループCM「おなかすいたねの歌」矢野顕子 Akiko Yano

 (完全に余談だけど、長編アニメーション以外から。コニャラ、ジブリらしくてかわいいよねえ)

 

さいごに―コラボレーションという挑戦

外国人監督の起用。海外中心での制作。セリフなしという挑戦。そしてちょっぴり変わったキャラクターたち。

「レッドタートル」の持つのさまざまな「新しさ」が、「これって、ほんとうにジブリなの?」と、ちょっと人を遠ざけてしまっているところがあるかもしれない。

それでも、わたしは、ジブリジブリたる所以、その根幹にあるのは、映像それ自体だけではなくて、まず【何を伝えるか】であり、その次に【どうやって伝えるか】という順番でアニメーションを作っていくこと、その姿勢そのものだと思う。

そして、そこに不可欠なのは、この姿勢でアニメーションをつくるという志を持った監督、アニメーションを通してでしか伝えられないメッセージを持っている監督の存在だと思う。そこから考えたら、宮崎駿監督が引退した今、スタジオジブリを飛び出して、あるいは日本を飛び出して、場所や所属にこだわらずそうした人を探しにいくというのは1つの手段ではないかな、と思うのだけれど、いかがでしょうか。

 

まだジブリは終わっていない。コラボレーションという新しい挑戦によって、さらなる新しい発想がうまれ、いまだ見たことのないジブリ作品がどんどん生まれてくる可能性は、大いにあるんじゃないだろうか?「レッドタートル」は、そんな可能性を感じさせる映画だと思う。

 

つづくっ!

*1:ちゃんと学術的な言い方をすると、言語学でいうシニフィエ(意味されるもの、記号内容)とシニフィアン(意味するもの、記号表現)【参考】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%8B%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%82%B7%E3%83%8B%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A8