とうふのホルモン

ホルモンのままに。主成分はエッセイ。

広くて近いか、狭いけど遠いか【時々書きたくなるエッセイのようなもの】

地元に数日滞在して、おとつい自宅に戻ってきた。1日友人に会った以外は家族と過ごしたり本を読んだりして、ちょっとした手術を終えて退院したおばあちゃんを「おかえりー」と迎えてからは、(手術をした箇所は順調なのだが)3週間の入院生活を経て(手術箇所とは関係ないのに「膝が痛くて歩けない」などと言い始めたために、ずっと車椅子というVIP待遇だった結果)筋肉が弱って歩けなくなったおばあちゃんにこき使われていた。

老人相手に「こき使われた」などというなんて、可哀想、などと思うかもしれないけれども、兄弟以上にどうでもいい喧嘩を毎日毎日してきた相手だ、面と向かっているとものの2日で優しい気持ちなど吹っ飛んでいくもの。「満足に歩けない、しかし歩行器やらは使いたくない」というばあちゃんを、両親とも働きに出ている日中、家に1人にするのが忍びなく、滞在を予定より1日伸ばしたものの、その1日は30分のリハビリを終えたあとは、近所のジジババ友達が代わる代わる遊びにきて1日中喋っていたので文字通りわたしは雑用係だった。

まあそれでも、病院の移動で歩行器を使った結果、「やっぱり便利やの」などと言い出し、翌朝からは即席でタイヤ付きの椅子を補助道具として使い始めてくれたので、1日長くいたことに後悔はない。そうしてよかったなあとは思っている。

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さて「田舎は空が広い」とはよくいうけれども、田舎といっても一応は人里でありかつ四方を山に囲まれたわが地元、だだっ広い草原や視野一面に広がる田園があるわけでもないので、そんなに「広いなあ」とは思わない。ただ、むしろ「近いなあ」とは思うのです。

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日本海側特有の、どんよりと雲が立ち込めた空ばかり見ているせいかというと、そうでもありません。

なぜだろうかと考えてみたのですが、1つ理由としてあるのは、高いビルがないからでしょうね。

都会だと、見上げるほど高いビルやらタワーやら、まあそうでなくてもうちの近所にだって10階建てやらのマンションがあったりする。目の前に、「ありゃとてもわたしの背丈では足元にも及ばない」というような比較対象があるわけです。空は、その比較対象よりもずっとずっと遥か向こうにあるのが見える。

一転、田舎じゃあ、2階建ての一戸建てか、せいぜい電信柱くらいのものだから。目の先にすぐ空があるわけです。手を伸ばせば空の青に手を浸せそうな感じがするのです。

もちろん、神社の御神木みたいに背の高い木や、なんなら標高何百メートルの山だってあるんだけども、これらは…なんでだろうね、ビルやらタワーのようには圧倒してこないのだ。むしろこれらも、手を伸ばせば胸の中に飛び込んでくるような、どこかミステリアスな近さを持っているように思う。

 

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さて、夕方散歩中、広くて近い空を見上げてわたしが感じていたのは、郷愁ではなく、むしろ心臓への圧迫感でした。天井がすぐそこに迫っているような。日本海側の夏の、じっとりとした空気のせいもあったかもしれない。

大学進学、東京に来たばっかりの頃は、わずかな星しか見えない東京が、やっぱり嫌いだなあなどと思っていた。でもおとつい、改めて自宅の最寄駅に降り立ったとき、ああ空が遠いなあと思った。伸ばしても届きそうにない空が、雑多な見知らぬ人たちの住む街が、わたしは意外と嫌いでない。

 

先日、末の弟が大学見学に東京にやってきた。大学を見た上で、彼は「東京には行かない」そうだ。 「都会のごちゃごちゃしたのは俺には合わない」し、「大学も楽しそうだけど、でもそれより早く働いて一人前になって家庭を持ちたい」そうで。あの頃、東京に旅立つ姉にむかって、「おれはぜってー都会には行かない。だって都会は、赤とんぼ追いかけて全力で走ったりできないだろ」と言い放った野球少年のまま。

 

どっちがいいとかどっちがいけないという話ではなくて、自分はどこにいたいのか。選んだその場所にはどんな可能性があるのか。そこに、選ぶ自分はいるか。ようは、選択の話。

おばあちゃんと弟たちと毎日見にいった、夏の沈む太陽のでっかさとまっすぐ目を刺す眩しさ。中学校の屋上で見た、山際からちょうど今昇ってきたまん丸のお月様の、色濃い黄色と克明に見えるクレーターと、それから何よりちょっとびっくりするくらいの大きさ。あるいは星の降ってきそうな真夜中。こういうのも、空の近さを感じさせる要因かもしれない。そういうの、嫌いではないよ、そういうのも、大好き。それでもわたしは今ここにいる。それだけのこと。