【昨日のダーリン】「言うだけ」の人になりたくないし、「言わない」人にもなりたくない
ご無沙汰しておりました。とうふです。
毎日寝たり、ぼーっとしたりしながらようやく最低限の家事だけはやって過ごす反面、ときには病院に行ったり、図書館の本を読んだり、人に会ったり、脱毛したり、掃除したり、冷蔵庫を買ったり、ポケモンGOやったりしていました。全体的にあまり調子はよくない感じはします。でも悪い方向に向かっているのではなくて、前に進む過程にある障害物といった感じの不調感です。つまりは、「おちこんだりもしたけれど、わたしはげんきです」。
7月23日の「今日のダーリン」。
言うだけならタダだし、痛くもかゆくもない。言うだけでいいなら、なんでも言ってられる。「貧乏をなくせ」でも「税金はタダにしろ」でも、「絶対平和」でも「世界一強い国にしよう」でも、「自然に生きよう」でも、なんでも言える。
同じことを時々考えていた。
テレビに映る、政治家に対して文句を言う街角の人とか。あるいは街頭で演説する政治家とか。「意識高い」って揶揄する人とか。「世界平和」を文字通り叫ぶ人とか。公共やサービスやいろんな「提供者」に対してクレームを言う消費するばかりの人とか。
ほんとうにそうなるためには、どうしたらいいか。そのことを考えたり、すこしでもやりはじめたりすると、痛さもかゆさも、つらさも苦さも味わうことになる。そして、なによりも、じぶんの無力を感じるようになる。それでも、言うだけじゃないなにかをするには、どういう方法があるのかを探していく。
遠回りになるかもしれないけれど、なにかありそうな道を選んで歩き出すとか、まったく別の方向からなにかを掘り出してみるとか、けっこうじれったいようなことをやっていくことになる。そして、そういうことを本気でやるようになると、言ってるだけのじぶんにも厳しくなってしまうので、威勢のいいことばの数も減っていく。
言うだけばかりをずっと続けながら、じぶんはずっと正しいことを言ってきたぞと、誇り高く死んでいくなにもしなかった人というのも、いないわけでもなさそうだ。せめて、妻子だの夫だのを大事にするくらいのことは、やっていてくれたらいいのだろうけれど、そういう人は周囲の人を尊敬してなそうなので、たぶん無理なことだろうなぁ。
言うだけではなくて、行動・実現することってほんとうにむずかしい。
言うだけ言って、「じゃあお前やってみろよ」「じゃあお前は、何をやってるんだ」こういう批判に鈍感でいられるのは、もしそういう人がいるのだとしたら、ある意味では才能だとも思う。生きづらさを感じることも少ないのだろうなあ。
宮沢賢治の手帳にあったメモが、『雨ニモマケズ』という詩として発表されたけれど、あの詩を、たくさんの人が好きだってことを、ぼくはなんだかとてもいいことだなぁと思っている。あの詩のデクノボーの人は、ほとんどなにも言ってない。言うのではなく、している。作者は、詩の最後に音を立てずに登場してきて、「サウイウモノニ ワタシハナリタイ」と言っている。そういうものになれてない、ということを、しみじみ思っていたから、そう書いたのだろう。
言うのではなく、する。すごいことだと思う。
そして「サウイウモノニ ワタシハナリタイ」。なれてない、なれてないけど、そうなりたいと思っているということを、ちゃんと言う。「わたしはそう思っている」「なれていないけど思っている」そのことを、恐れずに、正直に言える。
ああ確かに、そういう意味の言葉なのかもしれないなあ。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。「サウイウモノ」にはなれないなりに、願うことだけでも。
「する」ことはむずかしい。だからって、「言う」ことを完全にやめて、考えることっもやめて、口を閉ざしてしまうのではなくて、難しくても「サウイウモノ」になれないなりに、ひとつずつ「言い」そして「やる」ことができたらいいなあと思う。そういうものに、わたしもなりたいな。