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とうふのホルモン

ホルモンのままに。主成分はエッセイ。

消耗している人は『モモ』を読んだらいいよ。(わたしと本を読む時間と『モモ』について)

とうふです。ごちゃごちゃ書く前に、まず簡潔に言いますね。消耗してるなら、ミヒャエル・エンデの『モモ』を読んでみてよ。

―――

わたしの数少ない友人、正直な言葉を紡ぐことと考えることが好きな友人が「大好きだ」と言っていたから、読みたくなって図書館の児童書コーナーで借りてきた。ミヒャエル・エンデの『モモ』。

 

都市の中心部から少し外れたところにある、円形競技場の廃墟にひとりで住み始めた女の子、モモ。彼女はだぶだぶの男物の上着とスカートと冬用の靴以外は何も持っていなかった。でも彼女には、「ほんとうに」あいての話を聞くことができるという、すばらしい才能があって、モモにはたくさんの友人ができた。

 

このあたりで、読むのがちょっとしんどくなった。穏やかで、しあわせな物語はちょっと退屈で、それを申し訳ないと思った。わたしのすばらしい友人が、「面白い」と勧めてくれたものを、「面白い」と思えないことに。あるいは、「面白さがわからないのは、わたしが阿呆だからなのか」と不安になってきて、そういう自分に嫌気がさしてきた。

 

無理しないでおこう。そう思いつつも、でもやはり読みたい気持ちもあった。ちょっとだけ読んでは、読まずにしばらくほったらかして、そしてまた気が向いたらちょっとだけ読む、というのを何度か繰り返して、分厚い本の最初の4分の1ほどはそうやって読み進めた。

そうするうち、おや、と思った。最初にそう思ったのは、モモの特別な友達の1人、無口な道路掃除夫のベッポについてのこの部分。

 

彼の考えでは、世の中の不幸というものはすべて、みんながやたらとうそをつくことから生まれている。それもわざとついたうそばかりではない、せっかちすぎたり、正しくものを見きわめずにうっかり口にしたりするうそのせいなのだ、というのです

 

そういう考えから、ベッポは、質問されたことに、うんと十分に時間をかけて答える。ときには1日以上かけて。そういう変なおじさん・ベッポのような人が、わたしは好きだ。嘘のない人。正直の純度の高い人。

 

そして、穏やかなモモのまわりに、突如「灰色の男」が現れた。彼らは、「時間貯蓄銀行」と名乗り、まことしやかに、人々に「時間節約」を勧める。もっともらしい彼らの言葉に、人々は無駄な時間を生活から省くよう努力しはじめるのだ。

例えば、会いたい人に会いにいって話す時間。食事をする時間。夜寝る前に外を眺めてぼーっと1日を振り返る時間。仕事をするにも、できる限りの無駄を省いて、何もかもを早く済ませることを最優先にしていく。時間を節約して時間を貯蓄しているはず、なのに、やがて口々に言うようになる。「時間がない」「そんなことをしているほど、暇じゃないんだ」。

 

わたしは、ここまで読むのに、すでに1週間以上、かけていた。そして、このあたりまで読んだとき、ようやく気づいた、このモモのいる世界は、この世界と似ているんだ。

 

灰色の男が登場して、物語の歯車が動き始めてからはあっという間だった。いつの間にか、読み進んできたところとまだこの先のところとがだいたい同じくらいの厚さになったと思ったら、みるみる残りページが減っていって、あっっという間に、最後まで読み終えてしまった。

 

そうやってモモが「時間」について知りそして人々の「時間」を灰色の男たちから取り戻すうち、思い出していた。わたしと、本を読む時間について。

 

 

大学受験に必要な勉強をする時間を確保するため、読書を泣く泣く封印したほど、わたしは暇があれば本を読んでいるようなタイプの子どもだった。だから、合格が決まって新生活の用意も整って、「ようやく本が読める」と思っていた。

 

しかし、わたしは本を読めなくなった。大学に入学してすぐの頃だ。

 

思えば当たり前のことなのだ。大学はいろんな世界で育った人がいる。「趣味は読書」と言って、哲学書、純文学、あるいは新書や思想書、あらゆるジャンルが好きな人がいる。それらはわたしが知らない領域の本だった。「高校生向けではない」から見もしなかった本だ。

あるいは、すごく本を読むのが速い人がいる。1日に1冊以上読める人がいる。当然、わたしよりたくさんの「面白い」本を知っている。

 

「わたしなんかが、趣味読書というのは恥ずかしい」。そういう思いに駆られた。

 

東大生たるもの、教科書に載っていた名著、教授が勧めた本を読まなくてはならない(皆さん、「●●」は当然読んだことがありますよね?そういう教授の言葉を、バカ正直に受け止め全力で自分を恥じた)。身になる、教養になるものを読まなくてはいけない。そして、そういう本は世の中にたくさんあったし、当然、1冊1冊ボリュームのあるものばかりだ。だから、速読ができるようにならなくてはいけない。

わたしは焦っていた。焦って読んだ本は、一文一文、読んでいるはずなのに、一文読めばその前の一文が頭からすり抜けていって、とてもじゃないけれど読みきれない。「おもしろくない」・「役に立たない」本まで読んでいる暇はないから、読んでも最初の数行、「役に立つのか?」不安になったら、切り捨てていく。

 

そうするうちに、1冊の本も楽しめなくなった。1冊の本を読みきることもできなくなった。

 

思えば、別に、「読んだことない!」ただ素直に言えばよかったのだ。「どんな話?」「どんなふうに面白いの?」ただ、教えを請えば、それだけでよかったのだ。わたしに知らない世界を教えてくれる、素敵な友人である彼らを前に、わたしは勝手に消耗していた。わたしのなかにいつの間にか「灰色の男」が入り込んで、巣食っているのに気がつかなかった。

 

そう、実のところ、読まなくてはいけないものなんて、別にないのだ。

自分が、「面白い」と思ったものが、自分の身になるのだ。どんなに栄養たっぷりだって言われても、自分の胃袋で吸収できずに吐き戻して消耗していたら、その栄養に意味はないんだ。「面白い!」って興奮して、いてもたってもいられないものだけが、血に、筋肉に、になるのだ。

 

そして、本を読む時間。それは、最初はなかなか読み進まない。それでも、えっちらおっちら、「ゆっくりでいい」そう思いながら、舞台が描かれていくのを気長に読んでいく。そうすると、いつの間にか、本の真ん中くらいまで来ている。そこからは、あっという間。おもしろくて、ページを手繰る手のスピードがどんどんあがっていって……。本を読むとは、そういうことなんだ。当たり前すぎて言葉にならなかったことが、モモを読む時間に、わたしのなかでだんだん言葉になっていった。

 

『モモ』。日本語訳の副題は、「時間どろぼうと、ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語」。

 

とにかく、消耗している人。黙って『モモ』を読んでみてください。

と、強く勧めてみてはいるものの、読まなくてはいけない本はないし、やらなくてはいけないこともない。何を食べるか、どう生きるかは、わたし・あなたが決めたらいいのだから。

 

だけど、あなたがもし、仕事や学校や世の中のそういう「やらなきゃいけない諸々のこと」に消耗しているのなら、どうぞ読んでみてください。穏やかで一見つまらないかも、と思うところは、さっき上に書いたあたりまでだから。その部分だけじっと、聴くことが得意なモモのように、まずはただ耳と心を傾けて。そうやって「ほんとうに」読むことができる人にしか読めない物語があります。モモがあなたの時間をとりもどしてくれるかもしれません。