とうふのホルモン

ホルモンのままに。主成分はエッセイ。

「個性」について(とうふあるいは黒毛和牛をどう料理するかが個性をつくると思う)【時々書きたくなるエッセイのようなもの】

「将来の夢」という作文に嫌悪感を抱いてしまうのは、わたしたちの世代に特有の現象なのだろうか。

「最近の若者は夢がない」とか言われてしまう。あるいは、不況しか知らない世代なんていう。けれど、わたしが生まれ育ってきた時間、平成ヒトケタ台というのは、「個性」という言葉が、日の目を浴びて、世の中の表舞台にいよいよ登場し始めた歴史、「個性」という言葉と一緒に、戦いもがき育ってきた世代といえるんじゃないかなと個人的に思っている。

 

みんな、同じように授業を受けて、同じように大人になって、おおむね同じように働いて、結婚して、子供を産んで、家を買って。この人生のテンプレートとされているものが、わたしたちが育つとともに、少しずつ少しずつ、おかしくなってきた、時代とのズレがどんどん拡がっていってきた、そんな気がするのです。自由の時代、あるいは多様化の時代といってもいい。

 

個性ってなんなのか、という問題があった。

 

「個性」。いつからかわからないのだけれど、少なくとも中学生くらいのときは、すごく「個性」という言葉がもてはやされていたように思う。「おかしいは褒め言葉!」っていう風潮があった。王道ではなかったかもしれないけれど、「個性のある人」っていいよなあ、と思っている人が、間違いなく、一定数以上、いた。無個性な、無難な、ありがちな、そういうつまらない奴にはなりたくないと思っている人が。ナンバーワンじゃなくてもいいから、オンリーワンでありたかった人が。

 

ただの「かわいい」じゃなくて「キモかわいい」ものの方がいいよねーとか。「え、この子が?!」と思う人が、奇抜なファッションをし始めたりとか。あとは、マイナーなアイドルを追いかけてみるとか。売れ出したら、古参なファンが、新しく好きになったという人に対して、「その程度で、ファンとか言わないで!」なんて言ってたこと、あったなあ(今もそういうのってあるのだろうか?)。

 

そう、「個性」は、最初の最初は、【とにかく人と違うこと】という認識だったように思う。

 

とにかく人と違いたいから、人がやっていないこと、人が目をつけていないところ、そういうものをわたしたちは探していた。でもね、そういうものを見つけてみてもね、結局、誰かしらはやっているんですよね。オンリーワンではないわけです。

だから、だんだん苦しくなってきた。自分オリジナルを追いかけているはずなのに、ふと横を見れば、同じようにそれを奇抜だ、オリジナルだって思って追いかけている人がいる苦しさ。それから、「本当に、わたしはそれが好きなんだろうか」という息苦しさ。

 

そしてわたしたちはだんだん気づいてきた。個性があって、それでいてかつ楽しそうな人は、無理して個性を作り上げているわけではないんだな、と。彼ら・彼女たちは、「個性的である」前に、「ありのまま」であり、「自分らしい」のだな、と。

 

「シンプル志向」とか「ミニマリズム」とか「量産型大学生」(は違うかもしれないけど)とか、個性は今一見わかりにくい方向に向かっている。けども、大事なものだけ追いかけよう、とそういうことなのだ。個性とは、無理をしないもの。自然と、にじみ出るものなのだと。

 

無意識のうち、滲み出ているもの。だからこそ、わたしたちは、なにが自分の個性なのか、得てしてすぐにはわからないものだ。そしてわたしたちは、自分から滲み出ているものの正体を知りたいと、固唾を飲んで見ている。釣り糸を垂らして、まだか、まだかと焦っている。はっきりと、言語化できる個性がほしい。自分が何者なのかを、知りたい。わたしたちはやはり、依然として、「何者でもない自分」になることをとても恐れている。だから「自分探し」をやめられない。

 

ある人は、就活のためとか、必要に応じて適当に個性を自分で書き上げてそれでいいやと思っている。またある人は、肩書きや所属する組織、あるいはわかりやすい経験に飛びついて自分の個性と思い込もうとしている。またまたある人は、何にもすがりつけずに、不安定に生きている。

すなわち「個性」は、今はまだ戦いと成長の途上にあるのだと思う。

 

「個性」とは何なのかという問題。

この問題について、最近のわたしは、「料理と同じだ」と思っている。

 

わたしたちは、料理でいうところの素材として生まれてくる。素材の味だけで勝負できる人はそれでいい、けど、そんな人はひと握り。料理をしておいしくしていくのだけれど、とはいえね、じゃあ素材の味を無視して料理したって、おいしくはならない。だから多くの場合の正解は、素材の持ち味や特性を知って、それを生かして、皮をむいたり切ったり焼いたり煮込んだり味付けしたりして、作り上げていくこと、となる。

そりゃね、とうふはどう頑張っても黒毛和牛のステーキにはなれないだろうけどさ、話題のお店の麻婆豆腐とか、老舗料亭の湯豆腐とか、お母さんのお味噌汁とか、とうふはとうふなりにいくらでも可能性はあるわけですよ。それを、「どうせ俺は黒毛和牛じゃないし」って諦めてたら、そりゃ一生ただのとうふで終わるよなあ。

 

とにかく、【もともとの素材】と、それから【それをどう料理するか】。その両方が、個性の正体ではないのかな、と思うのです。

 

麻婆豆腐がいいのか湯豆腐がいいのかそれともただのとうふのままでいいのか。どっちがいいのか、それは人それぞれだ。その意志・選択もまた、個性なのだから。

今の自分に満足できない、けどどこを目指せばいいのかもわからない、というのなら、できないことをやるのは無理だろうけど、まずは目の前のできることをやっていけばいいのだろうな、と思う。やってみて、違和感だったり、楽しさだったり、感じて考えたりすることで、あなたという素材が自然と生きる場が、きっと見つかる。

 

よくわからないかな?でも仕方ない、今わたしに書けるのはどうやらこれくらいだ。とにかく、「個性」は、今はまだ、戦いと成長の途上なのだ。

 

 

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■とうふのエッセイのようなものたち

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